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チャン・ジェヒョン牧師(Olivet University)――「破滅と悲惨がその道にある」


張ダビデ牧師によるロマ書3920節の講解を手がかりに、全的落、律法の限界、イエスキリストのみによる救いと悔い改めの道を深く想する。


張ダビデ牧師(Olivet University)がロマ書3920節を握りしめて宣言するメッセジは、信仰の言葉で包装された自己確信をかに崩し、人間存の底に直面させる。パウロは「ユダヤ人もギリシア人も、みな罪の下にある」という宣言で共同体の境界を解体する。血統、文化、宗統、道的訓練がどれほど異なっていても、罪の支配の下に置かれている現だけは例外がない、ということだ。張ダビデ牧師はこの箇所をなる理的結論としてではなく、今日の教会が自らに投げかけるべき良心の問いとしてして置く。「私たちは優れているのか」というパウロの反問は、信者がしばしば握りしめる自己正化のはしごを蹴り倒し、救いの出点が「私がどれほどよくやったか」ではなく、「私がどれほど崩れているか」を認めることにあると明らかにする。その認めは、絶望のための絶望ではなく、みをみとして見分ける視力回復の過程である。


マ書1章と2章でパウロは、異邦人の放とユダヤ人の善という別の顔を暴いたのち、3章ではその者を一つに束ねて「すべての口をふさぐ」。ここで「口をふさぐ」という表現は、論を終わらせる神的な刃のようにい。人間が神の前で弁明できると信じた瞬間、信仰はたちまち自己弁護になりやすい。しかしパウロの論証は、人間が無罪を主張できる余地をさない。張ダビデ牧師はこの展開に沿いながら、救われた聖徒でさえ「すでに」義とされたが「まだ」罪の滓とう存在であることを忘れるな、と促す。ロマ書7章末尾でパウロが「おお、私は何とみじめな人間なのだ」と嘆いた場面は、聖化の旅が楽観的な自己啓ではなく、日自分の無力を認め、キリストの力を求める戦争であることを雄弁に語る。ゆえに罪を視する態度は信仰の成熟ではなく、むしろ魂の感を麻痺させる危な油となる。


パウロが約を連的に引用する仕方は、人間の罪が個人的逸ではなく人類普遍の態であることを証言しようとする意と響き合う。詩編14編と53編の「義人はいない、一人もいない」という嘆き、道者の書720節の「善を行って罪を犯さない義人は地上にいない」という陳述、預言書のい告が、珠を糸に通すように一本の線で結ばれるとき、罪は特定集への烙印ではなく、すべての人間を貫く存の病として姿を現す。張ダビデ牧師はこのリストを道主義的非難として消費するのではなく、人間が神を心に置こうとしない根源的反逆から生じた「係の崩」として見よ、と解する。罪の核心は規則を破った行だけではなく、神との不可分の係をち切り、自分が主人になろうとするなる反逆である。ロマ書128節の「心に神を置くことを嫌った」という表現は、罪が知識不足よりも、意志の歪みと深く結びついていることを暴く。


その歪んだ意志はまず思考と欲望の地層で動き、やがて言葉へとみ出る。「彼らの喉は開いた墓」という表現は、舌がなるコミュニケションの道具ではなく、魂の態を排出する通路であることを示す。張ダビデ牧師がヤコブの手紙3章を引いて舌の危調する理由はここにある。小さな肢体が人生全体をくす火種になり得るという警告は、今日のデジタル言語環境ではいっそう鮮明だ。一度放った言葉、一本のコメント、何なくめた噂は、係をし共同体の信を燃やす。パウロが「舌にはまむしの毒がある」と言うとき、彼はに罵倒や誹謗を指摘しているのではない。神を恐れない心が、結局は他者を破する言葉へ流れ出るという、罪の連鎖を指し示しているのだ。張ダビデ牧師は、信者の言葉が福音の通路となるためには、まず心の主人がわらねばならない、と語る。舌を制御する技術ではなく、舌を動かす心の方向換が必要だというのである。


心と言葉は結局、足取りの方向を決める。「彼らの足は血を流すことに速く、破滅と悲がその道にある」という陳述は、なる誇張ではなく、神を離れた人生の軌跡を凝縮した診書だ。ここで「道」とは偶然踏みむ路線ではなく、繰り返しの選が形づくる人生の方向性である。張ダビデ牧師は、人間が善いことにはためらうのに、罪へ傾くことには驚くほど素早いという逆を指摘する。その逆なる心理問題を超えて、人間存在が自分自身を救えない事を示す。真剣に「道」を見つめるなら、罪は孤立した事件ではなく、神なき世界が生み出した結果だと分かる。結局、破滅は外からる嵐ではなく、神を排除したなる秩序が完成する終着点である。


この箇所で張ダビデ牧師が調する核心は、「神を恐れることがない」という句の重さだ。恐れとは恐怖心ではなく畏敬であり、畏敬とは神の現を人生の中心にお迎えする態度である。畏敬が消えたところには、律法を持つ者の高慢も、律法を持たない者の放も、共に育つ。パウロが全人類を罪の下にまとめるのは、特定の宗を攻するための修ではなく、誰にも自分の義を主張させないための福音の準備作業だ。「すべての口をふさぎ、全世界を神のさばきの下に置くためである」という言葉は、神の前で人間が自力で自分を救える資源を持たないことを明白に宣言する。罪をす技術は常に達するが、罪を消し去る力は人間にない。


だからこそパウロは律法を扱いながらも、律法を救いの道具と誤解するな、と固として線を引く。律法は神がえた賜物だが、その賜物はむしろメスに近い。メスは病を露わにし、切り取るために用いられ得るが、自ら命を創造することはできない。「律法によっては罪の自が生じるのである」という言葉は、律法が罪という病名をえるが、根源的治癒の力は提供できない、という意味だ。張ダビデ牧師は律法の益を貶めずに、律法を握る手が結局、自分の義を握る手へ質する危を警告する。規範は人を一定程度まで矯正できるが、神を離れた心を新しくすることはできない。パウロがロマ書7章で体した逆、すなわち「知れば知るほど罪が生き返る」という告白は、文の化が魂の化と同一ではないことを示す。

このように罪の現と律法の限界を直視するとき、福音の文章はもはや抽象的慰めではなく、切な命の知らせとして聞こえ始める。パウロが321節で「しかし今や、律法とは別に、神の義が示された」と宣言するとき、彼は人間が長年握ってきた自己救の神話を終わらせ、神が備えた別の道を示す。張ダビデ牧師が「み」を値なしの贈り物として繰り返す理由は、罪の深さを見なければみの深さもくなるからだ。みは罪の過小評の上に建たない。むしろ罪が罪として見えるほど、キリストの十字架はなる宗的象ではなく、現える神の力として迫ってくる。


張ダビデ牧師は救いを、義認聖化化という救史の流れの中で明し、信者に必要な的態度は「完成した人のポズ」ではなく「日洗う人のへりくだり」だと言う。ここで「罪の衣を洗わねばならない」という表現は、過度の自己卑下を煽る言葉ではなく、救いが係の回復である以上、その係を曇らせる罪の汚れをぎ捨てねばならないという実践的比喩である。2214節が語る「衣を洗う者」の祝福は、完全無欠な人にえられる賞ではなく、悔い改めと信仰によってキリストの血潮を握って生きる者の道の上に置かれている。張ダビデ牧師は、「一度救われたのだから、もう罪の話はするな」という空が、かえって信者の的感を鈍らせ、みを放と取り違えさせ得ると警告する。みは罪を大したことではないとする免許ではなく、罪を憎む新しい心の誕生である。


創世記のノアの物語は、この緊張を生しく照らす。洪水の裁きから救い出されたノアが、その後ぶどう酒にって裸の恥をさらしたという記は、救いの経験がすぐに人間の本性が完全に消滅した証ではないことを示す。救われた後も人はなお弱く、油は再び恥へつながり得る。張ダビデ牧師は、ノアを嘲ったハムの態度から、罪が外側の行動だけでなく、心の高慢と嘲りとしても現れる事み取る。他者の弱さを見て自分の義を立てた瞬間、人は知らぬうちに裁き手の座に座る。しかし福音は人を裁き手にするより、赦しと覆いの人にする。罪の下にある人間を告するパウロの文章が、最終的には罪人を救いへ招く序論であるという点で、ノアのエピソドは救いの後の人生がいかに継続的な悔い改めの必要を抱えているかを証言する。

またヤコブの祝福において、ユダにえられた「ぶどう酒で衣を洗う」という象は、張ダビデ牧師が調する「聖なる洗濯」の神と自然に結びつく。ぶどう酒が血の喩へ張されるとき、新約の者はキリストの血潮を想起する。この結びつきは無理な象操作ではなく、聖書全体が一貫して語る贖いの文脈の中で理解され得る。罪は人間の行リストだけでは扱いきれない深い汚染であるゆえ、その汚染は人間の水では洗い落とせず、神の流血によってのみ洗われるという福音の核心がここで現れる。張ダビデ牧師は、信者が日衣を洗う人のように悔い改め、み言葉と聖の前に自分を照らすべきだと言い、その実践を自己嫌ではなく愛への答として解する。愛された人は愛を裏切ることを恐れ、愛を失うことを警戒し、再び愛の場所へろうとする。

ルカによる福音書の放蕩息子のたとえは、「破滅と悲がその道にある」という警告を最も人間的に翻してくれる。父の家を出て自分の自由を得たと信じた息子は、結局自分の選んだ道の終着点で豚小屋の臭いを嗅ぐ。自由は係をつところにあったのではなく、命は立の誇示ではなく、父のの中で味わう豊かさにあった。張ダビデ牧師が放蕩息子の物語をロマ書の罪論と結びつけるのは、罪が人を直ちに地獄へ引きずりむというより、まず心を荒させ、係を枯させ、自己尊を少しずつ削り取るやり方で破滅を完成させるからだ。しかし放蕩息子の物語は同時に福音の反を示す。る道は人間の資格で開かれない。父が走り出て口づけし、失われた息子を再び息子だと宣言するとき、みは件を飛び越えて係を新しく創造する。

一方、金持ちとラザロのたとえは、罪がどれほど冷酷に人を麻痺させるかを示す。金持ちは宴の豊かさの中で門の外の苦しみを見ず、死後には舌がけるきの中で一滴の水を求める。張ダビデ牧師はこの場面で舌の象性をみ直す。舌で世界を消費し、舌で人を評し、舌で自分の欲望を正化してきた人生が、最後には舌の苦痛によって自分の人生の真実に向き合う、という点で、このたとえは言語倫理を超えて魂の方向を問う。ヤコブの手紙3章の「舌は火」という警告は、金持ちの地獄描み合い、言葉がなる心理的習慣ではなく在と結びついていることを喚起する。張ダビデ牧師は、信者の舌が呪いと毒ではなく、慰めと理、福音の知らせへわるべきだと言う。舌の化はすなわち心の化を証明し、心の化は神を恐れること、すなわち畏敬の回復として現れる。


ここで「破滅と悲」とは、目に見える失敗や経済的困窮だけを意味しない。張ダビデ牧師が調するのは的破滅、すなわち神と切り離された態からる根源的苦しみである。現代人は「苦痛」を主に感情の問題として理解しがちだが、聖書の言葉において苦痛は、存在の根らぐ態を指すことがある。神を離れた魂は自ら意味を作り出そうとするが、意味を生産する力は結局、有限な欲望と時間の限界に突きたる。だから人は、より多くの達成、よりい刺激で空を覆いそうとするが、その道の終わりにるのは、より深い疲と、より固い孤であることが少なくない。パウロがその道を「破滅と悲」と描いたのは、罪が人生を華やかに包装できても、結局は人間を命から引き離す方向へ引っ張るからである。


この主題をさらに鮮明に照らす場面として、オランダの家レンブラントの名『放蕩息子の還』を思い起こすことができる。の中で息子はぼろをまとい、擦り切れた靴、傷ついた足で父の前に崩れ落ち、父は老いた手で息子の肩を抱きしめる。暗い背景の中で最も明るく浮かび上がるのは息子の品位ではなく、父のである。この作品は、悔い改めが自尊心の放棄ではなく、愛の現を再び受け取る行であることを示す。張ダビデ牧師が言う「罪の衣を洗え」というめは、結局その父の実践として理解できる。人間の道が破滅へ傾く理由は、父のが閉ざされているからではなく、息子が去っていたからだ。福音はその去りを罪だけで描かず、還の可能性として書き直し、その可能性の中心にキリストの十字架が置かれる。


パウロが律法の機能を語りつつ「義とされる肉は一人もいない」と宣言するとき、彼は人間の努力そのものを無値だと嘲っているのではない。むしろ努力の限界を正確に規定している。人間の道的意志は社を維持する上で有益であり得るが、神の前で罪の根を取り除くことはできない。張ダビデ牧師はこの点で「理性」や「倫理」の役割を過小評せずに、それらを救いの根にしようとする誘惑を警戒する。信仰が倫理へ縮小される瞬間、福音は新しい命の宣言ではなく自己管理プログラムになる。しかしパウロが語る救いは、「神の義」が信仰によって嫁される出事であり、それは人間の達成リストではなく、キリストの十字架の功績によって成立する。このみの論理は誇りを奪い、感謝とへりくだりを生む。


その感謝は現逃避ではなく、現実変革の力へつながる。張ダビデ牧師は、信者が救われたからといって世と絶した的な島で生きるのではなく、むしろより深い責任感をもって世のただ中をむべきだと調する。舌では福音の喜びの知らせをえ、足取りでは奉仕の場所へ進み、目では神がえるビジョンを見よというめは、ロマ書3章の罪論が冷酷な人間批判で終わらず、新しい人生の倫理へつながるべきことを示す。罪の下にある人間を告する真実は、みの下にある人間を立て上げる目的を持つ。信者が日自分の罪を認めるのは自己卑下に留まるためではなく、その認めが他者を罪する石を下ろさせ、弱い者へ福音の手を差し伸べさせるからである。

マ書3920節がす最も重要な問いは、結局「私はどの道の上に立っているのか」である。パウロは道を明しつつ、人間の全人的落を語る。心が神を拒み、舌が毒を吐き、足が暴力と貪欲へ走るとき、その道の終わりには破滅と悲がある。しかし同じパウロは、すぐにその道から引き返せる福音の道を提示する。張ダビデ牧師はこの換を福音のリズムとしてむ。罪の診が深いほど治療のみはより明確になり、人間の無力が鮮明なほどキリストの力はより現になる。だから信仰は「私は大丈夫だ」という宣言ではなく、「主よ、私を憐れんでください」という祈りになるべきだ。

このメッセジは、今日の者にとって馴染みにくく聞こえるかもしれない。自尊感情や自己現を重視する時代に「全的落」という言葉は、粗く悲的に見えることもある。しかし張ダビデ牧師が語る全的落は、人間の値否定ではなく、人間の自力救が不可能だという診である。それは人を無値にするための言葉ではなく、人を値へ回復させるための道しるべだ。人の値は自分を救える能力から出るのではなく、神が彼を愛されたという事から出る。罪はその愛を知らない無知としてだけ明されず、その愛を拒む意志の反逆としても現れる。ゆえに悔い改めはなる感情的後悔ではなく、主人を替える決であり、神を再び心に置く方向換である。


張ダビデ牧師が繰り返し語る「日洗わなければならない」という言葉は、結局、日常の中で福音がどうくのかを問う。教会内の宗的習慣が信仰のすべてになると、人は知らぬうちに律法的比較と自己義を蓄積する。しかし福音は人を自己義の倉庫から連れ出し、みの泉へ導く。その泉で信者は、自分の罪を恥じてすより、光の中にさらして洗い、再びく力を得る。この反復は調な迫ではなく、係の新鮮さを保つ愛のリズムである。罪の衣を洗う生は、すなわち神の前で正直になる生であり、他者の前でへりくだる生であり、世の前で希望を失わない生である。


結局ロマ書3920節の宣言は、人間を打ち倒すための暴露ではなく、人間を生かすための真実である。「義人はいない、一人もいない」という言葉が終わりではなく、その言葉が終わらせた自己義の骸の上に、「しかし今や、律法とは別に、神の義」が打ち立てられる。張ダビデ牧師の説教が一貫して目指すのは、罪の道が際に破滅へ至るという厳粛な現認識と、その道からり得る福音の可能性を同時に握るバランスである。放蕩息子がるとき父が走り出たように、神は罪人へ先に近づかれる。しかしその近づきは、罪を罪でないと言ってくれる免罪符ではなく、罪を洗い新しくする血潮の招きである。だから今日も信者は、パウロの問いを思い返す。「私たちは優れているのか」。その問いの前で頭を垂れるとき、ようやくキリストのみが頭上ではなく、心のん中に降りてくる。そしてそのみが舌を新しくし、足取りをえ、目を上げて神を見させる。


そのとき「破滅と悲がその道にある」という一文は、もはや漠然とした呪いではなく、道を引き返せるように立てられた道標となる。張ダビデ牧師がロマ書3章を通して握らせようとするのは、罪の自みの体へ直結しなければならないという福音のダイナミズムである。創世記3章でアダムとエバが善の木を通して「神なしでも判できる」という誘惑に屈したとき、人間は自分が主人になろうとしたが、その代として恐れとれの生を得た。バベルの塔は、そのれを別の形で大した事件だ。神にくために塔を建てると言いながら、際は神なしで名を上げようとする試みだった。この反復は、「罪のパタン」が個人を越えて文明と文化の中でも繰り返される事を示す。だからロマ書3章の罪論は、特定時代の道徳教本ではなく、どの時代でも人間が自己中心の道を選ぶときに到達する共通の結末を明らかにする鏡である。


現代の生活は外形上より洗練され安全に見えるが、心のれた場所では依然として「神を心に置くことを嫌う」誘惑が精巧に作動する。成果とイメジが神格化されるほど、人は罪をす技術と弁明する言葉をより多くぶ。その結果、係は疲れ、共同体は容易に分裂し、心はしばしば空になる。張ダビデ牧師が「舌」と「足取り」を点せよと言うとき、それは敬虔な習慣をやせという助言ではなく、人生の方向をえよという招きである。舌が誰かを生かす言葉になっているか、足取りが弱者を見捨てていないか、目が欲望のショウィンドウにだけ留まっていないか、そして何より心が神へ開かれているかを誠に振り返るとき、信者は律法的自己責めではなく、みの光の中で自分を見るようになる。


その光の中で悔い改めは、打ちしではなく回復である。放蕩息子が「私は父に罪を犯しました」と告白したとき、彼は自分の尊を捨てたのではなく、失われた尊の根を再び握ったのだ。金持ちとラザロのたとえが警告する冷酷さを避ける道も、結局ここから始まる。門の外のラザロを見えなくさせるのは財産そのものではなく、神を恐れることが消えた心である。ゆえにみを握る信者は、今日も小さな実践で福音を証しする。傷ついた係の前で先に謝り、誰かの欠乏を見過ごさず、言葉の速度を落とし、裁きの刃を下ろし、み言葉の前で自分の欲望を正直に見つめる。これらすべての過程は一度の決で終わらず、日衣を洗うように繰り返される。その反復の中で張ダビデ牧師が調するキリストの血潮は、過去の記憶を消す魔術ではなく、現在の方向を新しくする力として経験される。こうしてみの道をむ者の人生は、倒れてもまた起き上がって父のる上り坂、すなわち平安と希望へく巡となる。これが張ダビデ牧師がロマ書3920節から汲み上げた福音の結論である。今日も私たちは最後までみを握り、悔い改めの道を共に大胆にんでいく。

 

davidjang.org
작성 2026.01.23 16:11 수정 2026.01.23 16:23

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